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盛岡地方裁判所花巻支部 昭和29年(モ)42号 判決

債務者 朝倉剛介

債権者 国

訴訟代理人 鰍沢健三 外四名

主文

本件につき当裁判所が昭和二十九年九月二十四日なした仮処分命令はこれを認可する。

訴訟費用は債務者の負担とする。

事実

債権者代理人は主文第一項同旨の判決を求め、その請求の原因として、

一、債権者(所管省内務省後に建設省に引継ぐ)は昭和十六年北上川の水防対策及び綜合開発の目的で猿ケ石川田瀬堰堤の建設に着手し、その湛水用敷地は六平方粁に及び同地域における居住者等から右用地の買収明渡を要することとなり、その人員(世帯主)は債務者外百二十六名であつたが昭和十八年六月中までにすべて各土地の買収又は移転の契約が成立し、いずれも土地代金並びに移転等に関する約定諸補償金の支払を完了し、土地については昭和二十年三月三十日までに所有権の移転登記をなし債務者外七十四名を除くその余の者は当時立退を完了したのである。

二、右の如き事情で債務者については昭和十八年六月十七日別紙土地目録の(2) (7) の土地を代金千百七十一円五十銭で買収し、同地上に存在する建物九棟総建坪百五十四坪一合八勺(内一棟製材工場は別紙建物目録中(15)であるがその他は昭和十九年十二月焼失したもの)をその補償金一万五千二百十六円を受領後遅滞なく収去移転することとした。

債権者は右土地代金及び移転補償金を昭和十八年十二月中支払つたが債務者は前記数十名の者等と明渡を履行せずにいたところ、太平洋戦争が激しくなり資材労力の欠乏から昭和十九年八月右堰堤築造工事は一時休止することになり、休工中は施設を維持する程度にとゞめることにして債務者より買収の右土地については昭和二十年二月二十八日所有権移転登記を完了した。

そして債務者等に対する土地明渡の督促を怠つたまゝ終戦後昭和二十五年十月に連年の水禍に鑑み、右工事が再開されるに至り速かに右債務者等の土地明渡を要することゝなつた、けれども経済事情の変動もあり明渡を促進するため同人等に明渡と引換えに追加補償をする旨申入れ、その結果債務者外二名を除きその他の者はすべて追加補償を受けて既に明渡を終つたのである。

三、債務者の前記第一次の補償の際その対象となつた建物は前記の如く九棟であつたが、前記の如く製材工場を除く八棟は第一次補償金受領後の昭和十九年十二月焼失し、昭和二十年三月三十日頃までに別紙建物目録記載の(15)を除いた建物を債権者に無断で新築した。しかも別紙土地目録の土地中(2) (7) を除くものは債権者が債務者以外の者等から買収した土地であるのに、債務者はこれ等地上に右建物目録中(15)を除いた建物を建造したものである。

右新築にかゝる建物については追加補償の対象とはならなかつたのであるが、交渉を重ねた結果昭和二十九年八月二十二日前記焼失建物を考慮に入れ追加補償金として金百九十七万八千百八十九円を交付することゝし、債務者は同年八月末日限り前記の建物目録の建物を収去して同土地目録記載の土地を明渡すことを承諾し、材木家財道具等の搬出を開始したがにわかに態度を変え右明渡及び追加補償金の受領を拒絶するにいたつた。

四、北上川はその最大洪水流量が一ノ関市において毎秒九〇〇〇立方米でその下流宮城県境に至る十八粁の間は極度に狭隘のため毎秒六三〇〇立方米に過ぎない。そのため流水量の一部は一ノ関平野その他に湛水し甚大な被害を惹起してきたその被害額は毎年平均五億千九百万円に及び、特に昭和二十二年九月のカザリン、同二十三年九月のアイオン両台風による被害は甚大で、岩手県、宮城県における被害額は二十三億九千万円、死者五百三十五人を数えた程で、債権者はかゝる災害を防止するため北上川治水計画を立てその本流及び支流たる雫石川、猿ケ石川、和賀川、胆沢川の四大支川に堰堤を築造し洪水を調節することゝした。

五、猿ケ石川は岩手県花巻市において本流と合し支川中最大のもので、本件堰堤によれば同支川洪水流量毎秒二七〇〇立方米の内二二〇〇立方米を調節し得るもので、これにより北上川水系の出水による岩手県内の被害を一二・六五%、宮城県内の被害を一二、六九%(以上耕地面積四・四一七町歩産物にして米三七・〇六七石いも類五〇・〇〇〇貫野菜果実一七三・五〇〇貫)防止することが可能となり、更に右堰堤により湛水すればこれにより六・二〇四町歩を灌漑し米五二・五四八石の増産を図り得べく、また年間一一二・〇〇〇・〇〇〇キロワツト時の発電が可能で、これについては既に電源開発株式会社において発電設備を完成し湛水を待つばかりとなつている。

六、債権者は三十一億という国費を投じ特に全国治水計画において優先的に取上げた関係もあつて、工事を急ぎ且つ九月は出水の危険期にあるを以て昭和二十九年九月一日に湛水を開始すべく同年八月その工事を完成した。

しかるに前記の如く債務者外二名のみが不法に土地を占拠してこれを明渡さないため湛水できない状態で、一朝台風等豪雨があれば出水による災害を防止することは期待できないばかりか堰堤の排水量に限度があるため流水量過大の場合は湛水による水没の危険が債務者にも及ぶ虞もあり、また湛水不能により前記発電もできずその電力喪失に伴う産業振興の阻害等による損害は莫大なものがある。のみならず債務者は既に水没のおそれなき前記目録土地の山寄りに製材工場、二階建製材倉庫及び住居可能の小屋を新築し、住家についてはその基礎工事を終え建築可能の状態となつており作業を開始し家財道具の大部分は右倉庫に移しているのである。右の如き状況で湛水できないために発生する損害の甚大なことは債務者が建物を収去されることにより被むる損害とはその質量とも比較できない程である。と述べ

債務者の主張につき昭和二十九年八月二十二日債務者との間における建物収去に関する約束が債務者に対する債権者の詐欺もしくは強迫によるものであるとのこと、債務者の建物移転は道路の敷設配電設備の完成を条件としたものであるとのことは否認する。尚、右約束は昭和十八年当時の契約を改め新たに補償金額及び明渡時期につき協議することにしたものでなく、その約束の趣旨は既に昭和十八年に補償金を支払つて債務者は立退くことになつていたから重ねて立退料の支給はできないが事を穏便に解決するため債務者が任意に明渡すなら恩恵的に前記金員を支払うというのである。従つて債務者に従来本件土地を使用する権限を認め或いは明渡の履行期を猶予したものではないと述べた。

〈立証 省略〉

債務者代理人は盛岡地方裁判所花巻支部昭和二十九年(ヨ)第十二号建物収去等仮処分命令はこれを取消す、債権者の仮処分命令申請は却下する、訴訟費用は債権者の負担とするとの裁判を求め答弁及び理由として、

(一)  債権者主張事実中、本件土地が田瀬収堤敷地として債務者等から買収されたものであり債務者が債権者主張地上にその主張の如き建物を所有すること、債権者において本件堰堤を計画し着工後一時中止となり昭和二十五年十月工事が再開された経緯並びにその間に債務者が土地買収代金及び補償金の支払を受けたことが債権者主張の如くであること、工事再開後債権者より再補償をする旨の申出があつたこと、現在の右建物は債権者主張の如く以前の建物が焼失し再築したものであつて焼失前の建物総建坪が債権者主張の如くであつたことはいずれも認めるがその余は否認する。

(二)本件仮処分命令は債権者に本案訴訟において勝訴判決を得て執行したと同様に完全に満足を与えしかも本件にあつては堰堤湛水により債務者の原状回復を不能ならしめるもので、このようなやり方によつて債権者に満足を与える仮処分は民事訴訟法の認める仮処分の範囲を逸脱したもので違法である。

(三)  債務者は当初本件土地を堰堤敷地として債権者に売渡したがこれを現実に明渡す時期につき定めなきまゝ戦争のため右工事が中止となつたため債務者は従前の使用状態を継続して来たもので、これは債権者において承認していたものでこのことは右客観的事実によるも認められるものである。

それで債権者は昭和二十五年右工事を再開するに及び経済事情の変動のため以前の契約のまゝでは実情に副わないから前の契約を白紙に返し改めて湛水予定地の居住者等全員との間に補償金額及び土地明渡時期について協議することになり、これに基き債務者は交渉を重ねて来たものゝ債権者の提示した補償額が実情に副わないものであるため承諾しないでいたところ、昭和二十九年八月二十二日債権者代理人等が「右提示の補償額を直ちに承諾しない時は数日中にダムを湛水し補償金は一銭も支払わない、もし債務者の移転遅延により下流の者が水害等の損害を被つた場合は債務者はその賠償責任を負わなければならない」等と申向け、法律にくらい債務者を欺きもし承諾しないと極めて不利な地位に陥るものと誤信させ且つ強制されて同日債権者主張の如き契約をしたが、これは右の如き瑕疵による意思表示だから当時直ちに取消の通知をした。従つて未だ補償額、収去時期について契約は成立しておらず債務者は土地明渡の義務はない。

(四)  債権者は債務者が建物を移転する場合の条件として道路を敷設し配電設備を速かに完成し移転を容易ならしむることを約していたのに、道路、配電設備ができたのは昭和二十九年六月で債務者はその直後から移転に着手し進行中であつたがその完了が後れたのは右設置が後れたためで、債務者に責任はなく債権者がその責めを負うべきものである。

(五)  債権者は本件被保全権利は土地所有権妨害排除請求権であつて債務者の不法占拠は昭和十八年中に生じたと主張するが、債務者は爾来昭和二十九年八月二十二日債権者より不法占拠であることの非難を受けるまでは何等の抗議を受けることなくその間十年余に亘り継続占有していた。これは債権者において右占拠を忍耐していたものでこのような事情は仮処分の必要を阻却するものである。

(六)  本件仮処分により解決される利益の原因である事実は、債権者の北上川治水その他の公共目的のために家屋収去移転並びにこれに伴う損失補償の協定成否に由来する公法上の権利紛争である。従つて債務者は国より正当の補償を受けることを憲法第二十九条三項で保障されているのである。仮令債権者主張の如く債務者が不法に占拠しているとしてもその土地不法占拠の故に右の国より受くるべき正当なる補償についての協定が不要であるとの理由にはならない。

本件仮処分により債権者がその土地所有権行使により右の目的を達しようとするのは実体的法律関係をあいまいにしているものである。

本件仮処分申請の目的とするところは国の公共事業遂行のため債務者に属する財産を完全且つ消極的に使用せんとするものであるからかりに仮処分命令の形式によるとしても、かゝる申請行為に出るには債務者に対し正当な補償がなされていなければならない本件においてはこの補償がなされていないので右仮処分申請は前記正当な補償を無視してなされたもので、右憲法上の私有財産不可侵の保障を無意味たらしめたものに外ならないかゝる違憲を目的とする本件申請は却下さるべきである。

(七)  本件仮処分命令の申請は仮処分を濫用するものである、即ち

1  債権者が本件仮処分手続をとつたのは堰堤湛水工事進行上の支障を除去するためである。

2  本件仮処分申請による債権者の所期する仮処分方法は本案訴訟における妨害排除請求権に基く給付請求と同一で実力による紛争状態の現実的解決方法である。

3  債権者が仮処分を必要とする事情は出水被害の虞れないしその防止及び電力生産遅延による損害防止で、これは元来北上川上流治水行政の目的であつてその達成のため本件堰堤工事の竣工を必要とするのである。

ところが右工事はその遂行に必要なため取得された権利又は右工事進行に伴つて生じた権利のすべてが行使された状態の上において完成するのである。

して見ると本件仮処分申請は堰堤工事完成の必要のためになされたものであるのにその仮処分の目的が右工事進行途上において存すべ妨害排除請求権を保全するため仮定的暫定的状態を作出するにあるとしたら奇怪である。

以上により本件仮処分申請は債権者が堰堤工事施行上前記請求権実現のため判決執行と同一状態を指向して司法権の作用を求めたものである。

仮処分は本案による請求権を保全するため仮定的暫定的状態を作出するを目的として司法権が機能するを本質としこれはいかなる公益上の理由によるも莫大な損害を予想されようと公企業遂行の必要によつて変更さるべきものでない、本件仮処分申請は右に指摘した目的に利用するもので仮処分の濫用であるから却下せらるべきであると述べ、

〈立証 省略〉

理由

国である債権者において北上川水防対策及び綜合開発を目的として本件田瀬堰堤を計画し昭和十六年着工したが大平洋戦争のため一時休工となり昭和二十五年十月同工事が再開されるに至つた経緯右堰堤築工のため移転を要することになつた世帯数及びその移転状況、本件土地が右堰堤敷地用として債務者等から買収されたもので、この代金及び債務者等の移転補償金は支払済で右土地所有権が債権者に帰しその移転登記も完了したこと、右土地に債務者において債権者主張の如き建物を所有していること及び右建物は前記補償の対象となつた建物が工場一棟を除き焼失しその後建築されたもので、その敷地の一部は債権者が債務者から買収したものであり他の部分は債務者外の者から買収したもので後者の地上に建築するについて特に債権者の承諾を得たことがないこと等に関しては債権者主張の如くであることは当事者間に争がないところである。

疎甲第二十四号証並びに証人鈴木伊勢松、同阿部清章の証言によれば債務者は昭和十九年六月中には債権者に売渡した本件土地を明渡すべきものであつたことは明らかで、本件堰堤工事が昭和十九年八月休止となつた後は債務者が債権者に売渡した土地を従前通り使用居住することを債権者において承認していたものであるとのことはこれに副う如き債務者本人尋問の結果は措信し難くその他債務者の疎明方法によつてはこれを疎明するに足りない。

また債権者において工事休止後債務者は勿論前記残存者等はその立退を求められることなく従前のまゝ継続居住していたという事実のみにより債務者等の居住を承諾したものであるとは解し得ない。

前記証人及び朝倉金作の証言によれば債権者が右残存者等に対する再補償をすることにしたのは同人等に法律上の権利の有無を問わず現実居住している者の移転につき経済事情の激変のための社会事情を考慮して決せられたものであることが明らかで債務者等の居住権を承認していたためであるとは認め難い、又右工事再開に当り当事者間の前記昭和十九年当時の土地買収または移転に関する契約を解消し改めて補償額、移転時期を協定しなおすことにしたということ或いは債務者移転には道路とか配電設備の完成することを条件としたものであるとのことについては、前記措信せざる債務者本人尋問の結果をおいては債務者のその他の疎明によつてもこれを明らかにすることはできない。従つて債務者が売渡した土地又は債権者が他より買収した土地につき債務者の現占有が正権限に基くものであることはその疎明なきに帰し債権者の主張する所有権による防害排除請求権は疎明されたものというべきである。

しかして岩手県地方にあつては例年九月は台風襲来による豪雨期で洪水による被害の最も甚大な季節であることは顕著であるところ疎甲第一号証、第十九ないし二十二号証によれば本件猿ケ石川堰堤規模が債権者主張の如くして既に湛水を開始し得るまでに完成しているが債務者が移転せず本件土地を占拠しているためその開始ができないでおり、かゝる状態において一朝豪雨があれば右堰堤による洪水量の完全な調節は不可能でそのため北上川水域ににおける人命財産等に及ぼす回復すべからざる災害を惹起する虞あることが明らかで、加うるに堰堤の排水口(閉蓋して湛水する口による排水量に限度あるためその流水量過大となれば当然湛水により水没の危険が債務者にも及ぶことは当事者間に争なきところである。

右の如くして債権者が本案訴訟において勝訴の判決を受けるまで右疎明された権利の行使を遅延するときは多くの人命財産につき回復することのできない危険発生の虞があるからこれを除去するため仮に右権利を行使させる仮の地位を定める必要ありというべく本件仮処分は民事訴訟法の認める仮処分の範囲を逸脱するものと解すべきでない。

或いは右の如き災害により損害を被むるは個人にして債権者たる国には直接損害なくこれを理由とする仮処分の申請は違法であるからこれに基く仮処分命令は許さるべきでないというのかも知れないが、国は右の如き災害発生を防止し公共の福祉を守り増進するをその目的としている、この目的を達するためには立法権或いは行政権の行使によることあるは勿論であるが私権を取得しこれが行使により達成をみることもできるのである。本件において債権者たる国は後者の方法を選び債務者等より堰堤築構その湛水の要地を買収しその所有権を取得し債務者等は移転することになつたことは前記のとおりで、もしこの私権の行使を防害する者があるため右の如き危険惹起の虞を阻止し公共の福祉を守り得ないとするならこれを理由として民事訴訟法上の仮処分を求め得るものというべくまたこの理由により仮処分命令をなし得るものと解するを相当とする、従つてまた右の如き目的のため仮処分を申請するのが仮処分の濫用であるというは当らない。

債務者の本件仮処分は憲法第二十九条第三項の財産権保障の規定を無意味ならしめるものであるとの趣旨の主張については右憲法第二十九条第三項はその第一、二項にかゝわらず公共の福祉のため必要がある場合は私有財産を侵してこれを用いることができるがそれは正当な補償の下になされなければならないと解すべきで本件の如く所有権に基く不法占拠による妨害排除をなすは右にいう財産を侵すには当らないから右主張は理由なきものである。

以上の理由によりその他の争点については判断を要せず本件仮処分申請はその理由あるものとしてこれを認容すべきものとする。よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用し主文のとおり判決する。

(裁判官 降矢艮)

建物目録〈省略〉

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